さよなら Harry Caray Major League Baseball のちょっとした話

さよなら、Harry !

シカゴカブスの、いや、世界の名ブロードキャスター Harry Caray 氏が、アメリカ中西部時間1998年2月18日18:10 (日本時間19日9:10)に他界しました。

半世紀以上にわたりメジャーリーグベースボールのブロードキャスターを勤め、有名なセブンス・イニング・ストレッチでファンの心をつかみ、多くの家族連れや女性の足をボールパークに向けさせました。それらの功績が認められて、89年に野球の殿堂 (The Baseball Hall of Fame)入りした球界の宝でした。

彼の子供と孫もブロードキャスターを勤めており、史上初の3世代に渡ってメジャーリーグのブロードキャスターという輝かしい記録を作っていました。特に、彼の孫が昨年末に WGN (シカゴローカルのTV局)に採用されたばかりであり、Harry は、孫と一緒に仕事をするのを楽しみにしていました。しかし、それも実現せずに終わってしまいました。

「メジャーリーグベースボールのちょっとした話」では、彼の一ファンとして、ここに彼の足跡をわずかながら残し、心より哀悼の意を表します。

Harry に関する名言集 は、こちら
Harry Caray's Restaurant 公式ページ (英語)

生誕からセントルイス時代まで

Harry Caray、彼は、ミズーリ州セントルイスで生まれたようですが、実は、生まれた年が定かでありません。例えば、シカゴ・カブスによると彼は1920年3月1日生まれの77歳としています。The Orlando Sentinel によると「Harry は、一般には77歳だと伝えられている」と書きながら、彼は今年79歳だとしています。また、セントルイスの至急報によると1914年3月1日生まれの83歳となっています。彼の奥さんは、彼が今年84歳の誕生日を迎える(つまり、83歳だった)と言っています。私の知る限り、いろいろな新聞、雑誌、TVでの報道を見ても、彼の年齢についてはまちまちで、77歳、78歳、81歳、83歳、84歳という5種類の報道がなされていました。

さて、彼が最初に放送に関わったのは、1930年代の後半、イリノイ州の Joliet にある WCLS でのことのようです。ハイスクールを卒業した後、彼は、体操用具を売っていました。19歳の彼の収入は、週25ドルだったそうです。その後、週給20ドルの WCLS で働くことに決めました。

そのときの彼の役割は、スポーツと特別イベントのアナウンサーでした。彼の本名は、Harry Christopher Carabina といいますが、ここのマネージャーが、彼の名字を Caray と短くするように勧めたそうです。

1944年にセントルイスのラジオ局 KXOX のスタッフアナウンサーとなり、その秋、同じくセントルイスのラジオ局 WIL のスポーツアナウンサーとなりました。この年からHarryの53年間に渡る、ベースボールのブロードキャスターとしての人生が始まったわけです。そして、45年からセントルイス・カージナルスのラジオ中継を担当し、47年、カージナルスに帯同しての放送をはじめました。結局、45年〜69年の25年に渡り、セントルイス・カージナルスのアナウンサーを勤めました。

彼の仕事のスタイルは独特で、屋根のないスタンドでは、日光を浴びるために上半身裸のままファンにインタビューをしていたそうです。また、特に暑い夏の日には、下着姿のまま放送をしていました。

こんなこともありました。61年のことです。ファールボールが放送ブースを直撃し、彼の記録ブックが外に投げ出されてしまいました。ページがひらひらとグランドに舞い落ちていきました。このとき、審判はタイムをとり、Harry がその落ちた記録ブックを拾うのを助けたということです。また、64年には、カージナルスがペナントを制したとき、興奮した Harry は、放送ブースを飛び出し、「The Cardinals win the pennant !」と大声で叫んだそうです。

この間、不幸な出来事もありました。68年11月3日に、セントルイスの交差点で交通事故に遭い、両足、肩そして鼻を骨折するという重傷を負いました。このとき、25万通以上の励ましの手紙が、彼の元に届いたそうです。

カージナルスがHarry との契約を更新しないという決定をしたあと、彼は、オーナー(Anheuser-Busch=バドワイザーなどで有名なビール会社)に仕返しをしました。彼が Shulitz (ライバル会社のビール)を飲んでいる写真を撮らせたのです。

オークランド時代からシカゴホワイトソックス時代まで

1970年、1シーズンだけ、オークランド・アスレチックスのアナウンサーを勤めました。オーナーの方針が気に食わず、この1年間は、Harry にとって最悪の年だったようです。例えば、彼は「Holy Cow」と呼ばれていますが、それをチームマスコットにちなんで「Holy Mule」(mule=ラバ)に変えさせようとしたそうです。

その後、71年にシカゴ・ホワイトソックスのアナウンサーとなりました。 76年、ホワイトソックスのオーナー Bill Veeck が、放送室に内緒でマイクをセットし、Harry がオルガン奏者 Nancy Faust に合わせて大声で歌を歌っているところを球場に流しました。ファンたちは、彼がたいそうなしわがれ声で歌っていることを知りましたが、彼と一緒に歌いたいと思いました。ここから、毎試合、Take me out to the ballgame を歌うようになり、彼のトレードマークとなった Seventh-ining sing-along (Seventh-ining Stretch) が始まるわけです。

そのうち、ホワイトソックスのオーナーが、試合を有料でTV放送する計画を打ち出しました。心からベースボールを愛している Harry は、激怒しました。そんな事が許されるはずがありません。1982年、Harry は、同じシカゴにあるカブスで仕事をすることに決めました。結局、彼は、1971年〜1981年の11シーズンをホワイトソックスの声を届けたことになります。

なお、76年から、彼の息子 Skip Caray が、アトランタブレーブスのブロードキャスターを勤めています。

シカゴカブス時代

1982年、Harry は、シカゴカブスと WGN (シカゴローカルのTV局)へと活躍の場を移しました。

Harry は、多くのファン、特に女性ファンの足をボールパークへと向けさせました。彼のトレードマークである、牛乳瓶の底のようなレンズのついた、大きすぎる黒縁めがねからも想像できるように、彼がハンサムだから女性ファンがついたわけではないのです。彼は、その独特のキャラクターによって、ベースボールのブロードキャスターというものに注目を集めさせることができました。彼の元同僚は、「Harry は、最高のショーマンだよ。」と言っています。Harry は、放送ブースにとても大きな網を用意しておき、ファールボールが飛んでくるのを待っています。そして、ファールボールを網で捕まえると、それを誇らしげにファンに見せます。

1987年2月18日、カリフォルニア州パームスプリングで友人達とトランプをしているとき、軽度の脳卒中を発症しました。もちろん、Harry は、病気を克服し、5月19日に職場復帰を果たしました。開幕からの6週間、著名ゲストが彼のかわりを勤めようとしましたが、彼にはかないませんでした。彼は、当時の大統領リーガンから放送ブースに激励の電話をもらいました。実は、Ronald Reagan大統領も、かつて、カブスのブロードキャスターだったのです。この年の10月、シカゴのダウンタウンに Harry Caray's Restaurant をオープンしました。

そのリーガン大統領は、88年の9月30日に突然、リグレーフィールドの放送ブースを訪れて Harry を大変驚かしました。

89年、Harry は、野球の殿堂 (The Baseball Hall of Fame) 入りを果たしました。殿堂入りのスピーチの間、彼のファンたちは、自然に Take Me Out to the Ballgame を歌い始めました。多くのベースボールファンに愛されている証拠です。

彼には15人の孫がいます。その一人である Chip Caray が、91年5月にシアトルマリナーズの実況放送を始めたことで、Harry, Skip, Chip という史上初の3世代に渡るベースボールブロードキャスターとなりました。

1994年6月23日、マイアミの Joe Robbie Stadium での試合開始前に、彼は突然倒れました。不整脈のためでした。この年、彼は、ブロードキャスターの殿堂 (The National Association of Broadcasters' Hall of Fame) 入りしています。彼がベースボールのブロードキャスターをはじめて、50年です。すばらしいことです。

現ファーストレディ(大統領夫人)の Hillary Rodham Clinton は、彼女の生涯通しての熱心なカブスファンです。94年、Harry は、リグレーフィールドにて、彼女の頬に熱いキスをしています。

97年末、Chip Caray は、Harry と一緒に WGN でカブスの試合の放送をするため採用されました。Harry は、体調がすぐれないため、この年から、カブスの遠征に同行することを断念していたのです。98年シーズンは、孫と一緒にシカゴ周辺の州のみ遠征をして、カブスの活躍の様子を伝えることを楽しみにしていました。

98年始め、シカゴのTV局 WGN は、今年のカブス戦の放送方針を発表しました。それによると、同局の人気番組を優先的に放送するため(視聴率目的)に、カブス戦の放送を減らす、つまり、Harry の出番を減らすと言うことでした。Harry は、激怒しました。「畜生め!そんなものより、俺の方がずっとイカしてるぜ!」

それでも、孫と一緒にカブスの活躍の様子を伝えることを楽しみにしていました。そんな矢先のこと、哀しい出来事が彼自身に起こりました。

さよなら

1998年2月14日、カリフォルニア州 Rancho Mirage でのバレンタインデーのディナーパーティの席上、挨拶しようとして立ち上がったときにバランスを崩し、テーブルに手をついたところ、Harry は、テーブルとともに倒れました。Harry は、テーブルに強く頭を打ちました。そのまま、 Eisenhower Medical Center に入院しました。

病院側は、Harry は、心臓の発作を発症していないと発表しました。彼の義理の息子は、Harry は意識不明のままであるが、自ら呼吸をしていると、AP通信に伝えました。

ファン達は、かつてそうであったように、Harryが病気から立ち直ることを信じていました。しかし、シカゴ時間の18日午後6:10、Harry は、帰らぬ人となりました。

Harry のレストランでは、この日の午後 7:30 に Take me out to the ballgame を歌いました。午後7:30は、一般にプレーボールがかかる時間です。Harry が倒れたから、ずっとそうしていました。レストランの支配人は、これを今後もずっと続けるだろうと言いました。

あと2週間もするとエキジビションゲーム(オープン戦)が始まり、また、Harry の季節がやってくるというときでした。今年は、いや、もう二度と、あのしわがれ声の Take Me Out to the Ballgame を聞くことはできません。合掌。


付録:カブスの考え

シカゴカブスは、セブンス・イニング・ストレッチを今後どうするべきかいろいろと考えたようです。98年シーズンの開幕まで1週間ほどの頃、ラジオやTV、新聞などでしきりにその話題にふれていました。

結局、毎回ゲストを招待し、Take me out to the ballgame を歌ってもらおうということになったようです。リグレーフィールドの初戦(4月3日)は、彼の奥さんである Dutchie に歌ってもらうことに決まったようです。場合によっては、Harry の歌声をテープで流すこともあり得るとのことです。

また、Cubs は、1998年シーズンは、彼の追悼および彼の偉大な業績への感謝の意味を込め、ユニホームの肩に彼の似顔絵をモチーフしたエンブレムをつけてプレーすることにしました。


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